近江商人ゆかりの地
東近江市五個荘金堂地区は、琵琶湖の東、湖東平野のほぼ中央に位置する農村集落です。
当地は古代に区画整理事業として神崎郡条里が施行されましたが、集落並びに周辺の水田地は現在も条里制の区割りを踏襲しています。
金堂に現在みられる集落が形成され始めたのは江戸時代のことです。当初は幕府領であった金堂は、上野館林藩領を経て、貞享2(1685)年に大和郡山藩領となります。大和郡山藩にとって近江の金堂は飛び地であり、飛び地支配のために集落の中央に陣屋を設置。その周辺に寺社や民家が配されていきました。
金堂陣屋跡の付近に位置する勝徳寺には、陣屋の長屋門が移築されて現存しています。
近江商人屋敷 外村宇兵衛邸 |
金堂の農家一戸当たりの平均耕地面積は6反程度と小さく、農家としての生活は貧しいものでした。そのため、副業として麻布の賃織が盛んに行われていたそうです。これは湖東全般に言える傾向であったようで、江戸時代末期には近江が麻布の生産量で日本一を誇っていました。
五個荘の商人の出現は八幡・日野の商人に比べて遅く、主に江戸末期から明治期にかけて活躍しました。そのため金堂地区の商人屋敷は多くが明治から大正にかけて建築されたものです。
行商で成功した近江商人は大坂や江戸に店舗を構え、さらに事業を拡大していきました。一方で住居は出身の地に持ち、妻子が中心となって留守を守りました。これが「本宅」です。
本宅は質素な和風建築ですが、敷地内には庭園や茶室を持ち、近江商人の生活の質の高さが窺えます。
商人の本宅が並ぶ様子は金堂の象徴的な景観です。
商家にはつきものの土蔵。敷地の奥に建てられますが、通りから望見できるものも多く街並み景観の重要な要素です。白壁に腰板を貼るものが一般的ですが、この腰板は琵琶湖の船に使われた舟板と同じものが使われているようです。
農家建築は茅葺・瓦葺が混在しており、屋根形式は切妻と入母屋が大半を占めます。現役の住戸では様々に改修が加えられており、外観上の統一感はあまりありません。
水路もまた、金堂の特徴的な景観です。集落中心部の寺院や商人本宅の周囲中心に、集落の内に網目のように張り巡らされています。水路は主に洗い物に用いられ、人々の暮らしには欠かせないものでした。
本宅の街並みと水路。水路の側面は伝統的な石積み工法が採られています。
東近江市といえば、『飛び出し坊や』発祥の地として知られており、もちろんここ金堂にも設置されています。これを見ると湖東に来たことを実感しますね。せっかくだから、近江商人の格好の特別なものなどを用意すれば、もっと街並みに人を呼べると思うのですけどね。
※飛び出し坊やは旧八日市市社会福祉協議会が考案したものですので、正確には金堂が位置する旧五箇荘町とは別の地域です
●アクセス
東海道本線能登川駅、又は、近江鉄道本線八日市駅から近江鉄道バス神崎線
「金堂」バス停下車
●出典
東近江市五個荘金堂伝統的建造物群保存地区(東近江市教育委員会)
https://www.city.higashiomi.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000000/869/gokasyoukondou.pdf
東近江市五個荘金堂伝統的建造物群保存地区(文化庁)
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/r1392257_053.pdf
景清道を訪ねて(東近江市教育委員会)
https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042778.pdf
近江商人と三方よし(伊藤忠商事)
https://www.itochu.co.jp/ja/about/history/oumi.html
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