山間の長閑な宿場町
福住は篠山盆地の東の端、篠山街道沿いに位置する宿場町。
福住・川原・安口・西野々と大きく4つの地区に分かれており、それぞれの中心地にまとまって伝統建築が残されています。
慶長14(1609)年に篠山盆地の中心地に篠山城が築かれて以降、篠山藩は城下を中心とする街道の整備に力を入れていきます。篠山街道には城下の東に追入、西に福住と2か所の宿場が整備され、特に西に位置する福住は京都や大坂との往来でたいそう賑わったようです。
本陣・脇本陣の置かれた福住は宿場町としての性格を強める一方で、他の3集落は農村地区と位置づけられています。しかし、福住に隣接する川原地区では、農家と兼業で旅籠や茶屋を営む家もあったといいます。
明治時代になると、明治維新の影響で宿場としての制度は廃止されましたが、大坂と篠山・山陰地区を結ぶ交通の要衝としてますます繁栄したようです。転機となるのは、明治32(1899)年の京都と園部間を結ぶ京都鉄道(現JR山陰本線)、並びに神崎(現在の尼崎)と福知山間を結ぶ阪鶴鉄道(現JR福知山線)の開通です。物の流れは鉄道へとシフトし、両路線に挟まれる立地であった福住は大きな打撃を受けました。以降福住は農村集落としての性格を強めていきます。
周囲には田園風景が広がっている |
こうして近代化の波から取り残された福住には、江戸時代から続く伝統的な街並みがそのまま残されたのです。現在も地区の周辺には田畑が広がり、丹波黒豆や米の生産が盛んです。
宿場としての面影を色濃く残す福住地区。建物の多くは妻入りで、外壁は漆喰仕上げ・腰板張りと典型的な商家建築となっています。しかしながら、間口が広く、軒の連続した街並みは堂々としており、街道沿いの宿場の光景として十分です。
こちらは中2階の建築で、先ほどのものよりはやや新しいと考えられます。2階の窓は関西ではよく見られる虫籠窓となっています。
トタン葺きの大規模な農家建築。川原地区より西側で見られます。
川原地区では、街道沿いに垣根を廻らし、セットバックさせた民家も多く見られます。垣根の中には植栽を配し、涼しげな風貌です。川原地区の西端に位置する住吉神社。住吉神社の水無月祭は曳山の曳行を伴う祭礼で、曳山の形状は京都の祇園祭を彷彿させ、打込囃子は大阪の文楽の影響が想定されるなど、京や大坂との交通の要衝であった文化的環境を窺わせるものです。
安口地区もまた農家建築が目立ち、川原地区と同じような眺めです。手前の民家はトタンを葺き直したようで、眩く輝く白い屋根が素敵です。
安口には、福住で唯一と思われる茅葺の民家が残されています。一度トタン葺きとなったものを修復したのでしょうか。
街道を挟んで並ぶ商家建築。福住は全体的に民家の形態が似通っていて、町並みの統一感は高めです。ただし、連続して並ぶところは少なめです。
町の東端に位置する西野々。家並みもまばらになり、伝統建築も少なくなってきます。全体的に控えめな印象です。
ここは福住では珍しく、平入りの町屋が並んでいました。
おまけ
重伝建地区の西端に位置する、丹波篠山市営福住本陣団地。2階の高さや窓のサッシからわかるように近代建築で、2006年に完成した団地です。伝統建築の並ぶ周囲の景観と調和させるため、構造材は全て丹波篠山市の杉・桧を採用。土壁も地元の土を使用している本格的な修景建築で、その完成度はかなりのものです。1階の軒の高さは伝統建築と揃えられており、ファサードも一見すると違和感のない仕上がりです。
この団地は丹波篠山市が福住にかける情熱をよく表しており、実際福住はこまめに駐車場が整備されるなど、活性化に力を入れているようです。保存計画も非常に緻密に作成されており、数年おきと頻繁に更新されています。こんなにマイナーにしておくのがもったいないくらいです。
●アクセス
JR福知山線「篠山口駅」より神姫グリーンバス「篠山営業所」行きに乗車。
終点の「篠山営業所」で「福住」行きに乗り換え、終点下車すぐ。
又は
JR山陰本線「園部駅」より京都交通バス園部線乗車、「福住」下車すぐ。
バスは1日数本と非常に少ないため、車でのアクセスがおすすめです。
各地区に小さな駐車場が整備されています。
●出典
福住伝統的建造物群保存地区保存計画(丹波篠山市)
https://www.city.tambasasayama.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaika/denken/12887.html
篠山市営福住本陣団地
http://www.yutakana.jp/chiiki/show2007/07.pdf
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