【重伝建】
海野宿


宿場から養蚕業の町へ



海野宿は寛永2年(1625年)に、中山道と北陸道を結ぶ北国街道の宿場町として開設されました。当初は近接する田中宿との合宿という形でしたが、寛保2年の大洪水によって田中宿が被害を受けたため以降は本陣が海野宿へ移され、たいへんな賑わいを呈したといわれます。
江戸時代から残る旅籠屋建築群。窓に出格子がはまった建物が並び、趣のある景観を形作っています。屋根に乗っている小さな出窓は気抜き窓で、詳細は後述しますが後に蚕室造りへ転用された名残です。
こちらは茅葺屋根の建物。こちらも江戸時代から残るもののようです。
街道に沿って用水路が引かれていますが、これは馬の飲用水や旅人の足洗い用に使われたといわれています。これは大内宿など他の宿場にもみられます。
宿場の東端にある白鳥神社です。だいたい宿場へ行くとその端には神社が残されており、神道の浸透っぷりには感服させられます。




明治に入り鉄道網が発達すると宿場としての機能は失われますが、良好な気候を生かして養蚕の町へと移り変わります。この時期には蚕室造りの町家が建ち並び、旅籠屋造りの建築物と絶妙に調和した眺めがみられます。
蚕室造りの特徴が屋根に乗った気抜き窓。養蚕業では保温が重要で、桑の根などを1階の暖炉にくべて暖を取ったようです。その際の排煙と温度調節のために、気抜き窓のついた小屋根が大屋根の上に載せられています。これは蚕室造りの外観上の大きな特徴です。
商売に成功した町家には立派な『うだつ』が上がっています。うだつは火災の際、隣接する町家からの延焼を防ぐ防火壁の役割を果たす袖壁を、上方に伸ばして独立した小屋根を乗せたものです。うだつの建設には費用がかかるためこれが上がる家は比較的成功した商家に限られていました。これが「出世できず見栄えがしない」という意味の慣用句「うだつが上がらない」の語源となったとも考えられています。
うだつは権力の象徴的存在とあって、遠目に見てもよく目立ちます。
うだつの町並みと言えば美馬市脇町などが有名ですが、海野宿もそれなりに上がっています。うだつは商家町の特徴的意匠で、宿場から養蚕業へ転換した海野宿ならではの眺めです。
こちらは数少ない妻入の町家。海野宿は江戸期から明治期にかけての様々な形態の建物が並び、歩いていて飽きない街並みです。



明治時代には海野宿へ、信越本線(現在のしなの鉄道線)の駅の設置が計画されましたが、排煙が養蚕へ悪影響を及ぼすと懸念した海野宿の反対によって中止となり、代わりに田中宿へ駅が設置されることとなります。鉄道のルートから外れ不便な街となった海野宿は再開発の波に乗り遅れ、以降は衰退の一途を辿りますが、その結果当時の街並みが現在まで保存されることとなりました。
出典:国土地理院空中写真(2005年)
航空写真で見る海野宿と田中宿。現在は田中宿側へ鉄道の駅(田中駅)が設置され、一帯の経済中心地となっています。
白鳥神社の付近からは、寛保2年の大洪水を引き起こした信濃川の流れを見ることができます。長野県内では「千曲川」と呼ばれるほど湾曲も多く、暴れ川として知られる信濃川、流域はさぞ水害に悩まされてきたものでしょう。


訪問時は時間に余裕があったので、街並み保存の中心的施設である『ふる里館』へ。
1階の『うんのわ』では、お食事やスイーツがいただけます。
2階は1組限定の宿泊施設として整備されています。訪問時はグランドオープン直前で、特別に中を見せていただけました。

こちらは『なつかしの玩具展示館』。
内部には日本各地の伝統的玩具が展示されています。
写真撮影自由というのが嬉しいところ。小さな玩具もこれだけ揃うと迫力がありますね。




クセス
しなの鉄道線大屋駅から徒歩20分ほど。同線田中駅からも同じく徒歩約20分です。
訪問時は大屋駅からアクセスしました。
宿場の大屋駅側は風致地区に指定されており、近代住宅ではありますが瓦屋根の街並みがみられます。なかなか気分も高まるので、大屋駅側からのアクセスがおすすめです。

長野県内でも比較的マイナーな観光地である海野宿ですが、街並みもしっかり残っており保存活動にも熱心な保存地区です。首都圏からのアクセスも良いので、ぜひ旅行先の候補に入れていただければと思います。



信州とうみ観光協会
https://tomikan.jp/tanaka_unno_area/

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